普通神経症の部屋

Mkさんが、さまざまな予期恐怖を持ちながら旅行に挑戦し、その体験を書き込んでいます。「今日、旅行からやっと、帰ってきました。一言でまとめて感想を言うなら、「案ずるより、産むがやすし」ですかね〜。・・(森田の本で書く時はなるべく具体的に書けばよい!っと書いてあったので、具体的に書いたつもりなのですが、具体的になってるでしょうか?自分ではよくわかりません、、、)」。
さてこれについてMaさんのコメントは厳しいものです。「・・文面を見ると相変わらず症状のことばかり刻銘に述べられていて、これではどこへ旅行されてきたのか何が面白かったのかさっぱり解りません。・・森田的に具体的に書くとは、例えば、何時何分どこで何をやったということです。新しい発見・経験は詳しく記録します。どうしても辛いその時の感情は出来るだけ表現を控えます。「辛かった」とひとこと入れておけば十分です。一体森田先生の著書のどこを読まれているのでしょうか。少し厳しい内容だったかも知れませんが、厳しくと言われますので敢えてお話し申し上げました」。
そのコメントをMkさんは素直に受け入れたようです。つまり最初のMkさんの書き込みは気分本位なものです。その時々の気分にとらわれ、さまざまなことを体験した事実を書いていないのです。私たちが森田療法を学ぶときには、しばしば一人では困難です。自分の体験について率直に話してくれる人たちを必要とします。そしてMaさんもいうように生活の発見会の相互学習がこのような場合に役に立つでしょう。それを通して、みずからのとらわれに気づき、気分本位から事実本位、事実にしっかりと立脚した自己理解が得られるのです。


告白の勧め '03.11

Mkさんが「さっき彼と別れました。自分の中の対人恐怖が原因です・・」つらい信教を書き込みます。Maさんは「神経質者が対人恐怖で悩んだり視線恐怖で悩んだりするのは、実は対外的に苦しんでいるのではなく、自分の内面との葛藤に苦しいだけです。これを打破するには、外へ外へ目を向けて具体的に行動をしていかなければなりません」と助言します。Yuさんは自分の体験を踏まえて、告白を勧めます。「彼に自分のこと、お話してみてはどうですか?とっても勇気がいると思うけど、心のおおらかな人なら、きっと分かって受け入れてくれますよ。むしろ正直に話してくれた事に、愛しさがぐっと増すんじゃないかな!。それで変な顔するんだったら、きっとそれまでの男だ、と思えばいい。一緒に森田を学べる人でもいいですねえ。・・」。 私も同意見です。自分の欠点と思っていることを率直に話せることは、その人にとって成長なのです。いわば弱さをそのまま認めていける強さなのです。人はそのような経験を通して自分が症状と呼んでいるものから抜けていけるのです。

過食症と森田療法 '03.10

Mkさんが過食の悪循環に陥りました。次のように書き込みます。「私の過食は疲れたり、うまく事がすすまなかったりっとした時にストレスや疲労で甘い物がほしくなるっといった感じの悪循環型です。・・「食べたい」っと思った時には、「食べた」「食べてはいけない」っという自分との戦いで、他の発想が浮ばないのです、、、。 Maさんが言ってくれたようにホンの一寸した発想の転換がうかばないです・・」
Maさんは発想の転換を勧めます。「森田先生が言われるように《神経症は病気ではない》の前提に立って、私は過食症じゃないんだ。ただの健康人だと発想の転換を計りましょう。無茶苦茶な食べ方さえしなければ、美味しいものはありがたく頂戴したらいい訳ですね。」。Yoも発想の転換と行動することを勧めます。「日記をつけるでもいいし、毎日散歩でもいいし、今のMkさんに出来る事を考えてみませんか?失敗してもともとです」
私も同様に発想の転換を勧めます。私はMkさんを完全主義者と考えます。つまりちょっとした失敗が許せないのです。当分は食べてしまうもの(人として当たり前の欲求ですから)と覚悟することです。失敗の勧めです。そして食べるときには出来るだけ味わって食べてください。あまりに完全に、と思うと行き詰まり、それこそそのストレスでまた食べたくなるのです。程々に失敗しながら、森田療法では60点主義という言葉があるように、ぼちぼちと目の前の出来ることに取り組んでいってみたらどうでしょうか。

恐怖突入とは '03.09

Mkさんが過敏性大腸炎で悩んでいます。Mkさんが出席した生活の発見会の集談会である嘔吐恐怖の男性が「今度の金土日とバスで県外にいかなければいけません、もう吐きながら行ってきます」と冗談まじりに言い、他の人が「あの人の言っていることが恐怖突入です!」と言う言葉を聞きました。Mkさんは困ってしまったそうです。「・・私の場合は、人がいる前だとしても、下しながらでもバスに乗ったり、出かけたりしなければいけないってことなんでしょうか?そうでなければ、治らない?ってことなのでしょうか?^_^;なんかけっこう酷なことだっと」と書き込みます。
それに対してKaさんは次のようにコメントします。「・・この方は、必要があって県外にバスで行くのであって、治すために行くのではなく、ただ単に怖いまま行くだけです。私は本人ではないので本当のところはわかりませんが、怖いけれども行くというのは、きっと普通の一人の人間として、自分に必要なことはその障害はどうあれ、必要とあれば成し遂げたい、という気持ちがあるのではないでしょうか・・」と書きます。つまり恐怖は恐怖のままに必要なことに手をつけていくという森田療法の基本について述べています。
しかしMkさんは、納得できないようです。このままだとこの話し合いは、「やる/やらない」、「出来る/出来ない」という論争になりかねません。
恐怖突入にはいろいろな意味があります。症状を取り除いてからでないと、自分のやりたいことが出来ない、と考えるとそれは神経症的な認識です。症状を持ちながら出来ることから手をつけていく、と発想を変えてみると、違った世界が見えてきます。そこで症状(あるいは気分)と行動は別であるという認識に到達するかもしれません。そのために、今ここで自分は症状を持ちながらも何が出来るだろうか、と考え、工夫する心が大切です。

やる気が起こらないときには '03.08

Mkさんがやる気が起こらない時にはどうしたらよいのか、と悩んでいます。
「ず〜っとなんですが、何に対してもやる気がおこらないんです。気分本位はいけないですよね、、、やる気がおこらないと動く気にもなれないんです、そういう時に行動本位にするにはどうしたらいいんですか」。さてこのような経験は誰でもするもの、やる気を起こすにはどうしたらよいでしょうか。Maさんは読書を例に次のように答えます。「嫌々でもよいからそれを我慢してやってみなさいといいます。大抵は挑戦しないで、予期感情だけで質問をされているケースが多いからです。・・気分と実際とではこの様に違うものなのです。」
そうですね。気分と行動は別であるという認識が大切なのです。それが事実を知ることにもつながります。従ってやる気が起こらないときは、まず「とりあえず感覚」で取り組んでみることを私も勧めます。そこから次第に何かに取り組んでいる自分に気づくようになります。やる気が起こらないときこそ、このような事実を知るチャンスでもあるのです。

神経症と薬について '03.07

Haさんが薬物療法のことで悩んでいます。「今医師と相談しながら薬を減らそうとしているのですが、毎日一回飲んでいたのを2日に一回にしようとしてみています。飲んだ日は楽でなんともないのですが、飲まないときはしょっちゅうびくびくした感じになり活動が消極的になってしまい、たいした量ではないそうですが、薬を飲む日と飲まない日はやっぱり違うなと感じています。そこで少しお聞きしてみたいのですが、森田療法で神経症を克服された方は最終的には薬も飲まずにすみ、症状も気にならなくなられたのでしょうか? それとも気になりつつも自分の欲求にそって行動できるようになったということなのでしょうか?薬を減らしてならしていけば、そのうち症状も気にならなくなるものなのかなと疑問に感じたので聞いてみたいと思いました」と書き込みます。
ここでもたびたびこの問題について取り上げてきましたが、重要なことなので私の考えを述べたいと思います。
薬物療法は、急性の不安、うつ状態に対して行われます。しかし不安、うつ状態が慢性期に入りますとその効果は限定的です。
Moさんが指摘するように、薬物療法はそのような人の神経症からの解放には役に立ちません。従ってHaさんは次の点を留意すべきでしょう。不安とつきあう能力を育てるとともに、健康な生の欲望の発揮を目指すことが薬を減らすこと、止めることにつながります。それが神経症からの最終的な解放に結びつくからです。
そして薬物を止めることのみに注意を向けないことも肝要です。さもないと、今度は薬を止める、止められない、という薬物に対する新しい神経症的とらわれを生むからです。

過食は森田療法で治るのか '03.06

Mkさんが過食で悩んでいます。若い女性の悩みです。「過食してしまう衝動が止めれられないコントロールできない自分に嫌気がさしてしまいます。絶対に食べない!健康の事を思って食べない!などと決めていても、欲求に負けたり、イライラしてつい…といった状態です。今日も食べてしまった中途半端な自分が許せなくて、どうせたべたなら…っと暴走してしまいました。…その後は一回目に過食したことに落ちこみ考えこんでいました。」と書き込んでいます。
つまりここに悪循環が見出せるのです。いらいら、落ち込みなどの感情体験→過食→落ち込み→また過食というぐるぐる回りです。それとともにMkさんは「…大人になりきれてない自分をどうコントロールしていけばいいのですか」と悩みます。Maさんの答えは明快です。「森田の世界(事実の世界)ならクッキーを23枚食べてしまった。胃がもたれて、これはいけないことをした。以後注意しよう。これで終わりです。これを友人との付き合いに結びつけたり、学校の試験に結びつけたり、本当に可笑しいことでしょう。」。
さらに私は、問題は過食でなくて、自分の感情をしっかりと心で受け止め、処理できないことだ、と付け加えるでしょう。自分の感情をしっかりと持ちこたえられるならば、感情は森田の言う感情の法則により、変化していきます。そこまで待つのです。それとともに気分は気分、行動は別物という認識を身につければ、過食の悩みの解決に近づいていくと思います。

症状は消えるもの? '03.05

Miさんが症状について次のように書き込んでいます。「どうしても自分の症状が消えないです。…今の症状が消えないという事はどういうことなんでしょうか?この症状が消えないことの裏側には何があるんでしょうか? 何度も何度も同じことを聞いてるってことは十分わかっています…。この半年間、考えることばかりで何も行動にしていません…。」多くの神経症で悩む人たちが必ずといっていいほど陥る心の罠なのです。Maさんは次のようにアドバイスします。「Miさんと同じように職場復帰を真剣に考えると、やはり同じように『きちんと症状は治しておかないと』と言う風に考えてしまいます」。そして感情の法則を示して、この苦悩を持ちこたえるように助言します。このようなやり取りの中からMiさんは生活の発見会の経験、そこで悩みを分かち合え、共感できたこと、発見会の学習会に参加してみようと考えていることなどを書き込みます。自分の問題にしっかりと直面しようとはじめたようです。
症状とは完全に治そうとすればするほど、その症状に注意が向き、とらわれてしまいます。つまり望んだことと結果が逆になるのです。症状を持ちながら、それを持ちこたえながら、人は多くのものができるものです。つまり症状、気分と行動は分けて考えることが大切です。このような認識を深めていけば、以前症状と呼んだものが意識の周辺に薄れていき、変化していくものです。

死の恐怖と生の欲望 '03.04

Riさんが疾病恐怖で悩んでいます。「過去にも身体に『気になる』ホクロを見つけると病院で取ってもらっていたのですが・・ 不安におもう。病院に行く。手術で処理してもらう。身体に他の『気になる』ホクロを見つける。不安になる。悪循環です。疲れてしまいました。いっそ死にたいとさえ思います。
自転車で通勤しているのですが、内股等にある小さなホクロが悪性化したら・・・・と思い悩みます・・」と書き込んでいます。この領域では、豊富な経験!?と見識をお持ちなMaさんとSnさんが自らの経験を紹介しながらアドバイスしています。
疾病恐怖は、まさに死の恐怖です。私たちがいつでも感じる恐怖なのです。そしてその背後には生の欲望があります。死の恐怖は恐れざるを得ません。恐怖は恐怖として、持ちこたえながら、目の前のできることに取り組んでいく態度が大 切です。そしてこの恐怖は仕方がない、受け入れられるとともに、生の欲望がよりはっきりと自覚できるようになります。

受け入れることの難しさ '03.03

Suさんが書痙で悩んでいます。そして「『上手く字が書けなくてもとりあえず書いてみる』など書痙をありのままに受け止めていくことが大切ということには、なるほどその通りなのだろうと思いました。しかしどなたか別の方も書いていましたが、汚い字さえもかけない場合や、人前かそうでないかの関係なく字がかけないという場合はどうなのでしょうか?そういう場合はありのままに受け入れることは難しいと思います。・・本当に字がかけないのですからいろいろな事に障害が出てきます」と書き込みます。
それに対してKiさんが、『症状を「受け入れる」ということ』にとらわれてしまったといいます。そして病院の先生に相談したところ、『受け入れるのでなくて、放っておくこと、そして行動していくこと』とアドバイスされ、納得したそうです。しばしば神経質の人は、治療においても「かくあるべし」ととらわれてしまいます。「症状は受け入れるべし」でなく、確かに放っておいて、まず出来ることから取り組んでいくことが大切です。そして「気分」と「行動」は別、というしっかりとした認識を身につけることが肝要だと思います。

親と子供の森田療法 '03.02

Agさんがお子さんのことで悩んでいます。「もうじき7歳になる長男のことでお聞きしたいのですが、三男の生まれる一ヶ月前よりチック(咳払い)が出始めました。それと重ねて、よくある病気から死に至ったというテレビ番組を見て以来、不安を訴えるようになり、自分の体調に過敏に反応するようになりました。怖いという感覚は大分薄れてきたようですが、早朝覚醒があり、身体が大丈夫か・・・と常に気にしているような状態です。神経質に育ててしまい、これからはおおらかにやっていこうと思っているのですが、子供に森田療法的なアドバイスを行ってもいいのでしょうか?理解できる程度の言葉でそれらしいことを話して、少しは克服しているようですが・・・ご助言おねがいします」と書き込んでいます。
Saさんも同じような経験を持っているようです。Maさんがいうように、親の「こうあるべし」という厳しい躾がときにこのような子供の神経症的反応を引き起こし、それを長引かしてしまいます。子供は自分の不安を十分言葉で表現出来ず、行動や体の反応でその不安を示します。そのような時の親の対処として次のようなことがあげられます。Saさんもいうように子供が不安になっていることを理解し、子供の安心感を与えるように接してあげることです。厳しい態度は逆効果であることも知っておいたらよいでしょう。そして子供のよい点を見つけてあげて、ほめてあげることです。「こうあるべき」と子供を見ると欠点ばかりが目につきますが、子供をそのまま認めていける心を持てば、ほめるところはたくさんあるはずです。これが子供の良さを引き出し、成長を助けます。
それが子供の不安の根本的な解決ですし、森田的な子供への接し方の基本だと私は思います。

自分の体の調子にとらわれること '03.01

kiさんは、「首のふるえ、こり、眼精疲労、頭重など」で悩んでいます。その背後には人生上に行き詰まりがあるようです。それゆえ自分の人生をリセットしたい、今の状況から逃げ出したいとも考えています。そしてこの症状さえなければ、と強く願いますが、それゆえますます身体症状に注意が引きつけられてしまいます。つまり悪循環です。
いつも体の症状のこと、人生の行き詰まりを考え、そこから抜けられません。そして我と我が身の不幸を嘆くのです。これは典型的な神経質のとらわれの状態です。身体の症状は放っておきながら、出来ることを一つ一つ取り組んでいくこと、その出来ることに工夫と創意をつぎ込んでいくことが悪循環から抜ける手がかりとなるでしょう。そしてkiさんは出来ないこと、つらいことのみに注意を向けていますが、実は多くのことが出来ており、しっかりと自分としての人生を生きてもいるのです。自分の出来ていることをしっかり評価できたらよい、とも思いますが。