普通神経症の部屋

ゼロさんは胃腸症状や動悸など様々な身体症状に悩んでらっしゃるのですね。
症状がありながらも仕事や運動を続けていくというのは森田療法の中でも大切な所です。まずは症状のカラクリをお伝えしましょう。

これはとらわれと呼ばれる機制です。例えば偶然に身体のどこかに違和感を覚えた際、過敏に病気を恐れてその部位に注意を向けます。その結果、一層違和感が強く感じられていく、というものです。ゼロさんの様々な身体症状の奥には「病気になりたくない」という気持ちが存在し、その裏側には「健康でありたい、より良く生きたい」という欲求が存在しているのではないでしょうか。
そうであるならば、この不安を完全に除去する事は不可能で、その必要もないのです。症状を持ちながら生活をするというのは、「症状があったままでは何もできない」と病人の生活をするのではなく、身体症状をなくそうとせずに、より良く生きたいという気持ちを建設的な行動に発揮していくという事を意味しています。このように、森田療法では「苦痛に堪えて、なすべきことをなす」というのが第一の生活方針と考えています。これを続けていく事で本来の願いである「健康な人生」が現実なものになるでしょう。

すでにゼロさんは、そのような方向に歩みを進めているようです。ただもしかすると、「いつ症状が改善されるのか」と、毎日のようにご自分の体調をチェックしているのではないでしょうか。そのような姿勢を指して、森田先生は「挿し木を挿した後、根がついたかどうか毎日引き抜いて確かめているようなものだ」と言いました。引き抜かず(チェックせず)そのままにおけば、おのずから根がついてくることをお忘れなく。
(谷井 一夫)


「等身大の自己を育てていきましょう」 '08.11

Nさん、こんにちは。お腹の症状に悩まれながらも無事、デートに行けたようですね。良かったですね。「お腹が痛くなる自分」「緊張する自分」「オナラが出る自分」、どれも自分自身であることを冷静に受け止めていらっしゃるようですね。なかなか自分自身を冷静に見つめることは難しいものですが、Nさんは見事に出来ているようです。こうした様々な側面を持つ等身大の自己を育てていくことが大変重要になってきます。「自分が心寄せる人とのデートでオナラでも出たらどうしよう・・・」心配になりますよね。しかし、その心配だけにとらわれてデートに行かないのは大変に勿体無いと思います。ですから、今回のように不安は不安のままに抱えながら、「デートに行く」という目的を果たすように行動したことは大変良かったと思います。不安を優先するのではなく、ご自分の中の願望、希望を大事にしていきましょう。こうした行動が新たな地平を切り拓いていきます。
Sさん、こんにちは。うつ病から回復されて復職できたのこと、ほっと一安心ですね。復職後は、ご自分が思う以上に疲労を来たしやすいものですから、主治医の先生、産業医の先生、職場の方と相談しながら、業務量、仕事内容などを適時検討して、職場復帰を果たしていきましょう。また、今回のうつ病再発の要因をご自分になりに検討できていると良いのですが・・・。仕事の仕方、生活の送り方、休日の過ごし方、通院・服薬の仕方など、様々なポイントがあると思います。思い当たる節については、修正するように心がけていきましょう。
(川上 正憲)

「目的本位の生活を心がける」 '08.10

Nさんは、小学校5年生から、神経性頻尿、頻便、赤面恐怖、梅毒恐怖、らい恐怖、雑音恐怖、儀式恐怖、確認恐怖などの症状に苦しんできたとのこと。本当に大変でしたね。
小学校からの苦しみがありながらも何とか今まで生活してこられ、今回改めてこのようにご質問なさる努力に頭が下がる思いです。今は苦しくとも、そのようなご姿勢を持ち続けることで、いい方向に必ず向かうと思います。

さて、このように様々な種類の症状が神経症の患者さんに見られることは珍しいことではないのです。というのは、神経症の種類は数多くあるように見えても、共通する点があるからです。それは、不安や不快な感覚にこだわり、振り回されるということです。不安や不快な感覚の種類だけ、神経症の種類がある、と考えていただいていいでしょう。こだわりは患者さんそれぞれなのです。生きている限りさまざまな不安があり、心と体にはいろいろな感覚がつきものです。不安や不快はさけられないものです。しかし、神経症の患者さんは不安や不快をさけようとしたり、怒ったり、それについて考え込んだりすることで、それらをかえって強めてしまうのです。

森田療法では、そのような苦しみをこだわらずに受け止めることを「あるがまま」と呼んでいます。「あるがまま」であれば、不安や不快はごく当たり前の我慢できるものにとどまります。しかし、それらにこだわるとき、不安や不快は病的で非常な苦痛をともなうものとなります。森田療法ではそのこだわりとそれに伴う考えや行動を「はからい」と呼んでいます。
自分の「はからい」に気づき、その代りに目的本位の生活を心がけること、それによって「あるがまま」が養われるのです。今のいろいろな症状をなくそうとしたり、症状について深く考え込んだり、症状を避けるために必要な行動をしなかったり、といったことは全て治療の妨げになります。どの症状についてもそれがいえます。しかし、どのような症状があろうと、日常生活に必要な行動についてきちんと考え、それに真剣に打ち込む時、症状はかえって和らいでいくものです。

Nさん、いろいろな症状が本当に苦しかったであろうと存じます。ただ、いろいろな症状があっても解決法は実はひとつです。nstmさんがどのような目的をもっているのか、それをしっかりと考え、症状ではなく、目的を中心とした生活を送ることです。実行は難しいかもしれませんが、不可能なことではないと思います。ご参考にしてみてください。
(鹿島 直之)

「子を思う親の気持ち」 '08.09

Yさんは中学3年生の息子さんの髪の毛が薄いことを気にされています。まわりからそのことを言われているのではないか、自分が10代後半で薄くなり気にして引きこもったようにお子さんも同じようになるのではないかと心配のあまり、食べれなくなったり眠れなくなったりして、ついには本人に無断で皮膚科受診の予約を取ることも考えられたようです。Yさんは「子を思う親の気持ち」が強すぎる方のようですね。子供の幸福を願う親心がよくわかります。しかし今のところ息子さん自身は頭髪のことを気にしていないということですから、結局Yさんご自身の不安が問題だということになります。気にするな、といっても気になることは気になるものですね。それではどうすればよいのでしょうか。

不安を取り除こうとすればするほど、不安は増強していきます。まして、無理に息子さんを皮膚科に連れて行ったりしたら、それがきっかけで息子さんも不安にとらわれてしまうかも知れません。それではせっかくの親心もお子さんのためにはなりませんね。ですから自身の不安をバロメーターにするのではなく、親の心配をよそにお子さんが明るく成長されているという事実に目を向けましう。
そして不安は不安として抱えながら、ご自身の生活の充実を図っていくことです。もしも今後お子さんが何かに悩まれるときがあれば、その時こそYさんが子を思う気持ちを発揮して、親身に相談に乗ってあげたらいいでしょう。ことだと思います。 お子さんはまだ15歳、身体的にも成長の途中です。はらはら、ドキドキしながらも温かく見守ってあげることが大事です。お子さんの健やかなる成長をお祈りしています。
(矢野勝治)

「あるがまま」 '08.07

Eさん、こんにちは。現在、Eさんは様々な身体症状や緊張感に悩まされているようですね。今までも、同様な経験はあったのでしょうか?
もし、このような経験が始めてであれば、戸惑いを覚えることは当然でないかと思います。このような症状は、精神的な変調だけでなく、身体的な変調によっても引き起こされることがあります。
その際、Eさんの場合、甲状腺機能亢進症などの身体疾患の可能性も否定できないように思います。というのも、甲状腺の機能亢進に伴って、動悸、発汗、そして不安緊張などの症状が同様に出現することがあるからです。そのため、現在のおかかりの医療機関で引き続き、検査を受けていたければと思います。

しかし、一方で、これら症状から、Eさんは、「自分が愚かな存在になってしまう」と思いを募らせ、恐怖を抱いていることも事実のようです。だからこそ、「あるがまま」の心境を求めて、このフォーラムに投稿いただいたのだと思います。ところでEさんは、「あるがまま」をどのようにイメージされているでしょうか?
文面から察するに、「「あるがまま」とは、症状に振り回されない態度である」とEさんが考えられているように、私には見受けられました。もし、そうであるとすれば、「症状のない万全な自分」を心のどこかで求めていることになり、却ってこのような姿勢が症状へのとらわれを作り出しているといえます。むしろ、「辛いときは本当に辛い」と感じている心境こそが、Eさんの「あるがまま」の状態なのだと思います。そのため、「辛い」という気持ちを、まず否定されないことです。その上で、辛い状況に応じて、生活を柔軟に調整していくことをお薦めしたいと思います。
たとえば、急な緊張が襲ってきた際、まず体を休め、一呼吸置いた後に生活の立て直しを図っていくことも良いでしょう。もしかしたら、安定剤などの服薬をすることで、生活を凌ぎやすくすることだって一つの工夫といえます。辛い状況であればこそ、Eさんが色んなやり方を試し、少しでもよりよい生活が得られるようになることを願っています。
(樋之口潤一郎)

「森田療法と認知行動療法」 '08.06

普通神経症の部屋では、「森田療法と認知行動療法はどう違うのか?」ということで議論が交わされています。そこで今回はその二つの精神療法について少し触れたいと思います。

近年、森田療法と認知行動療法の共通点と相違点は、活発に論じられています。日本森田療法学会などでもジョイントシンポジウムが開かれ、相互の対話がなされています。最近の森田療法関連の論文や書物にはこの比較を論じたものも多いので、参考にしてみてください。

認知行動療法は、人間の情緒が認知のあり方に影響を受けるため、認知に働きかけるという考え方に基づく認知療法と、不安や症状は誤った学習の結果として起こるという考え方(学習理論)に基づく行動療法を合わせた治療法です。
行動によって気分、感情が変化するととらえること、そして行動が重視されるという点では森田療法とは共通した側面を持っています。認知行動療法の理論でも、不安を排除するための安全行動をとることでかえって不安が増強するという、森田療法の悪循環の捉え方と重なる見方もあります。

しかし認知行動療法の基本的な考え方は症状およびその結果としての不適切な行動に焦点をあて、認知や行動の変容によって症状を除去することにあります。これに対して森田療法では、行動をとるとき、不安や不快の強さをものさしにするのではなく、生活に必要かどうかを基準に行動するようにしていくのです。そして森田療法では必要であれば恐怖突入を行なうのと同時に、特定の症状に関係したことだけに取り組むではなく生活全体を広げていくことを目指します。そして悪循環の源ともなっていた「生の欲望」を自らの生活を広げることに生かすのです。

端的にいえば、認知行動療法では症状や不安をターゲットにするのに対して、森田療法では生活やその人自身に焦点を当てることが、両者の最大の違いといえるでしょう。

たとえばパニック障害の患者さんが電車に乗れないでいるとき、認知行動療法では階層表を作って恐怖の少ない状況から段階的に暴露する方法が取られます。一方、森田療法では必要であれば、電車に乗るという恐怖突入を促しますが、「必要な買い物ができたか」「よいものが買えたか?」という視点で見ていくのです(目的本位)。また例えば社会不安障害(対人恐怖)では、森田先生は「赤面に勝とうとしてことさらに交際の稽古をするのは無用です。かといって、自己の境遇、職業のためになすべきことは、いかなる苦痛、困難もやむを得ないことです」と述べておられます。

心理学的な理論の発展にはるか先んじて、1920年ごろの日本で不安と神経症に対する理論と治療法を編み出した森田先生の卓見には驚くべきものがあります。いずれにしても、森田療法も認知行動療法も、治療のための「道筋」です。担当の治療者とよく相談されて、主体的に取り組むことがなにより大切になるでしょう。
(塩路理恵子)

「事実を見る」 '08.05

Nさんは、長年強迫性障害に悩んでおられ、強迫観念と強迫行為により、日々の生活も狭まり、憂鬱な気持ちと毎日戦っているとのことでした。強迫観念によって押し寄せてくる不安と戦う日々は、確かに辛いことと思います。しかし、強迫性障害の辛さは、いくら観念を取り払おうとしても、あるいは不安を取り除くために強迫行為を繰り返しても、結局のところ不安を拭い去ることは出来ないという出口の見えない点ではないでしょうか。
Nさんの憂鬱な気持ちの背景には、こうした堂々巡りの苦しみから逃れられない無力感があるのでしょう。

では、どうしたらこのあり地獄から抜け出すことが出来るのでしょうか。
先に述べたように、強迫観念やそれに伴う不安を取り除こうとしても、ますます強迫観念へのとらわれは強まるわけですから、その戦いの先に出口はないのです。したがって、すぐに強迫観念をどうこうしようとせず、一呼吸おいてみることが基本となります。そして、とりあえず出来ることに手を出してみる、次の行動に移ってみることです。とはいえ、これは言うほどにたやすいことではありません。一呼吸おくとなると、どうしても納得して区切りをつけようとしてしまいがちなので、また頭の中のやりくりが始まってしまうからです。納得できないことを納得しようとするのではなく、「とりあえず」とか「60点でOK」などと、自分なりにはずみがつくような言葉を頭において、まず「一歩」を心がけてみましょう。後ろ髪を引かれつつ・・・でいいのです。

強迫性障害の患者さんが恐れているものは、大抵「〜してしまうのではないか」という想像上の不安です。実際、それが起こる確率は殆どないか極めて低いにもかかわらず、万が一の事態を恐れて、現実との区別がつかなくなっていると言えます。それゆえ、考えの最初に「もしも〜」という言葉がついたら、とりあえず保留にするというのもシンプルな対処法でしょう。
Nさんも、全ての根底に「自分がやりたくないと思っていることをやってしまうのではないか」という観念があると書かれています。つまり、その恐れの背後には、本当はやりたくないという気持ちがあるのです。しかしそれが強すぎるがために、「もしかしたら」と万に一つの可能性を疑ってしまうわけですね。
強迫のあり地獄から脱出するためには、不安を先に解決するのではなく、まず動いてみること、そして何よりも「事実」に目を向けることです。恐れていることが実は欲求の裏返しである事実、「本当はやりたくないと思っている」事実、そして恐れている事態は実際これまでに起こっていないという事実・・・などなど。移ろいやすい気分ではなく、誰の目にも明らかな事実を拠り所にして、これまでとは異なる行動に踏み込んでみましょう。あれこれ頭でやりくりしていた時とは違う体験が出来るはずです。これもまた貴重な事実であり、こうした事実を積み重ねていくことが、本来の自分を取り戻すことに繋がるのです。
他の方のアドバイスにもありましたが、一人でこうした姿勢を試みることが難しければ、入院森田療法を通して土台作りをすることも有用な方法です。
(久保田幹子)

「人前で吐くことが怖い」 '08.04

Sさんは嘔吐恐怖の悩みについて書き込まれました。小学生のとき、風邪のため教室で嘔吐したことがきっかけだったといいます。子供心にも、よほど辛く恥ずかしかったのでしょうね。そのときはいわゆる胃腸風邪だったのでしょう。一般に子供は大人より吐きやすい傾向にもあります。
2年位前からまた恐怖が襲ってくるようになったとありますが、実際に嘔吐したという記載がないところを見ると、症状は「吐き気」に留まっているのでしょう。特に会食場面で症状が顕著になるということからすると、問題の根っこは「人前で吐いたらどうしよう」という恐れにあるのだと思います。そのような予期恐怖に伴って身体にも緊張が現れるので、食道や胃が多少収縮して食べ物が喉を通りにくく感じたり、軽い吐き気を覚えたりするのです。吐き気の正体はそういうことであって、そのまま嘔吐に結びつくものではありません。実際、sisuikkoさんのような会食恐怖の方が、外食の最中に嘔吐したという話は聞いたことがありませんが、ご本人にとっては、そのような事態は身の破滅にも類することのように思えているのでしょうね。
けれどもSさん。もしも食事に同席している知人が、実際に嘔吐したとしたらどうでしょう?「何てひどいことするの」などと怒ったり嫌悪したりするでしょうか? それよりも、相手を気遣い、体調を心配するのではありませんか。自分の身に起こったとしても同じことです。このように、万が一「人前で吐く」という事態が起こったとしても、実際にはSさんの恐れているような破滅的な結果はもたらさないものです。
Sさんも、このことは理屈ではお分かりかもしれませんね。「あるがままを受け入れ、なすべきをなす」ように努め、会食場面も避けずにいるところに、Sさんの向上発展欲がよく現れています。たしかに吐き気は不快なので、「あるがままに受け入れる」ことは容易ではないと思います。無理に完食しなくていいのですから、先ずはこれまでのように、会食場面を避けず、食べられるだけ食べることにしましょう。人から尋ねられたら「外食のときは、何か緊張しちゃうんです」くらいの告白はしてももいいかもしれません。
回答が少々食事のことに偏ったようです。Sさんは、新入社員ということですから、仕事に対しても職場に対してもまだ緊張が強いのでしょう。そのような緊張は真剣な姿勢の現れですから、大いに緊張し、しっかり仕事に取り組んでいくことです。また同僚とのコミュニケーションの機会は、ランチのときばかりではありません。職場でのいろいろな場面で、先輩や同僚の人たちの話しに耳を傾け、自分からも積極的にコミュニケーションを図っていくことです。親しさが増すにしたがって、緊張も徐々に軽減していくはずです。
(中村 敬)

「過食と森田療法」 '08.03

Hさん、過食と嘔吐でかなり辛いことと存じます。でもそんな中、過食嘔吐をしてしまうストレスについてある程度自分で理解されているのは良いことです。弟さんが2人泊まったり外泊したりと大変そうですね。その中で「環境の変化についていけない」とありましたがどんな点が環境の変化についていけないのでしょうか?
弟さんたちが帰宅された時色々Hさんの生活をかき乱すことがあるとしたら大変ですよね。もしそうだとしたらある程度弟さんたちへH様が大変であることを伝えていらっしゃいますか?Hさんはかなり「頑張り屋さん」のようですので、あまり弟さん達へいまの「辛さ」をおっしゃっていないのでは、と感じたものですから、、。もし的外れでしたらごめんなさい。ただご自身だけで「頑張りすぎず」必要なことは言っていった方が良い時もありますよ。

また、過食、嘔吐をしてしまう前はどんな感情(気持ち)があるのでしょうか?
例えば自分の思うとおりにいかない苛立ちを紛らわせるためであったりするのでしょうか?
過食をすることへの「悪循環」はご理解されているようですので、まずは過食をする前の自分の気持ちと向き合うことが大事かと思います。過食してしまう感情をすっきりするまで過食嘔吐を繰り返すこととは別の対処方法を探していくことが大事でしょう。なかなか過食自体の対処が難しいようでしたら、「3食きちんととる」「時間制限をつける」「一拍おく」ことをこころがけてみましょう。
(舘野歩)

「あるがままの自分」 '08.02

iさん、こんにちは。懸案の学校説明会での発表が無事、終了されたようですね。おつかれさまでした。
当初の「不安で不安で仕方がない」心境から、フォーラム参加者の皆さんとの交流を経て、“「どうぞ、お笑いください」の開き直り”、および“「あるがままの自分」を見てもらう”、とする心境への変化が手にとるように伝わってきました。

たくさんの人の前での発表は誰でも緊張するものです。その上、より良い発表をしたいと思えば、その緊張はなお一層強いものとなりましょう。しかし、この緊張は異常なものではなく、人間誰しもに生じる自然な感情でありましょう。そうした人間に起こるべくして起きている自然な感情をないものにしようとする姿勢こそ、「不自然」と言えます。そうした不自然さに気づき、起こるべくして起きている自然な感情を抱えながら(不安は不安なままに)、当日は開き直りの心境で臨んだからこそ、自ら「成功体験」と感じることが出来たのでしょう。
こうしたプロセスに至るには、フォーラムでの皆さんとの交流が大きな支えになっていたようですね。是非、今後もフォーラムを積極的に活用されて、森田療法を生かした生活を実践してみてください。
(川上正憲)

「症状を話すか否か」 '08.01

Iさんが周囲の人に「あがる」人であるとわかってしまった様だと気にされています。これまで何とか取り繕ってきたのに、自分ではなんでもないと思っていた場面で症状が出て混乱してしまい、周りの人に症状のことを知られてしまったと肩を落とされています。そして今後も混乱状態になるのではないかと思うがあまり「上司や同僚に症状のことを話し理解してもらえば楽になるのではないか」と思う一方で、「知られてしまうと恥ずかしい」との思いがあるとのことです。

症状について話すことですが、最初から症状を話し分かってもらい認めてもらおうとはしない方がよいと思います。そのことよりも、予めしっかりと準備をしたり、伝えるべき内容のポイントを整理したり、あがりながらもしっかりと伝える努力をすることなどをまずはやるべきことではないでしょうか。もしも周囲から症状について聞かれるようなことがあれば症状について話してもよいと思います。たとえ症状を知られることになっても「知られたらどうなるのか」とIさんが思っているような決定的なことにはならないと思いますよ。
(矢野勝治)