普通神経症の部屋

Yさんは実際仕事を始めてみたことで、ずいぶん発見があったようですね。また壁にぶつかることもあるかもしれませんが、書き込みに書かれていたように、今回をどんな風に乗り切ったのか、何が良かったのかをしっかり整理しておくことがとても大事ですよね。次回も大変な時もそれを振り返ることで、前よりは少し楽に壁を乗り越えていく手立てになるのではないかと思います。こうやって血となり肉となっていくのですね!Sさんの「なんとかなるさ〜」にはまた別の強さが感じられます。この前も何とか対処できたのだから、今度もきっと大丈夫というのは柔軟なたくましさです。Tさんも新しい一歩を踏み出されるようですね。福祉業界の夜勤は大変かもしれませんが、心配な時こそ、「まずやってみて、それから考える」が一番現実から離れない方法ですね。

Yさん、Sさんの経験にもあるように、実際動き出してみないとわからない。そして、やっていく中で自信は後からついてくる。その逆はない。
こういった書き込みを読んで、うらやむ気持ちを持つ人も少なくないかもしれません。自分とは違う、この人だからできたんだと思う人もいるかもしれません。そういう気持ちが一時浮かぶこと自体は自然なことです。でもそれだけになってしまっては、それ以上の発展がありませんよね。森田先生にもそれについてお話をされています。曰く…よくなった人をうらやましく思って、それを真似して実行してみるのは神経質がよくなる道だ。しかし、人は(特に神経質は)それでは終わらずに、あの人は境遇が良いからそうなるけれども、自分はより病気が重い・より不遇だからからうまくはいかないなど、自分で理由をつけてひねくれてそねんでしまうことが少なくない。そうすると、自分で治らなくしてしまうことになるというものです。
フォーラムのみなさんのやり取りを拝見していると、お互いに適度のよい刺激となって好循環を呼んでいて、あまり心配の余地はなさそうですが… 
(今村祐子)


「書痙の悩み」 '13.11 

Sさん、Pさんが人前で字を書く時の手の震えで悩んでいます。
高良先生の本に、振顫(特に書痙)について「本症に対する心構えとしては、単に局所的症状を癒すことに専念せず生活全般の向上発展を促さなければならぬ。症状そのものに対しては、今は仕方がないものとして、そのままに拮抗することなく、むしろ進んで顫えるという位の気持で、やるべきことをやる。顫えさせない為にいろんな手段を試みることは有害無益である。殊に書痙系の人などは、顫えさせまいとして、ペンの持ち方まで変え、紙の置き方、姿勢など様々に変えているものが多いが、かかる手段は一切やめなければならぬ。すべて普通の健康人がやる様に書くことが大切である。又達筆で書こうとせず、誰にもわかり易いように、楷書できちんと書くようにするがいい。根本的に神経質療法を行なえば、局所の症状にはほとんど触れずに、いつのまにか全治するするものである。」とあります。

文字は人に伝えるための道具です。震えるかどうかでなく、伝わるかどうかです。さらには,より相手にわかりやすく伝えるためにという視点で取り組めたらしめたものです。苦手場面を避けることなく取り組んでいって下さい。 
(矢野勝治)

「不安を受け入れる」へ「とらわれ」ず。 '13.10 

Dさんは「日記を行動中心に書きつつ、御自身の気持ちを書きこみ、この体験フォーラムを良い形で利用されていると思います。是非続けていって下さい。
ただちょっと心配だったのは、「不安は不安のまま受け入れてがんばらなきゃって」構え過ぎているところはありませんか?「不安を不安のまま受け入れ行動する」が森田療法の考え方と思い行動していらっしゃる方も多いと思います。ただ「不安を不安のまま受け入れる」ということを目的にしないほうが良いです。不安を不安として受け入れられるようになるのは、必要な行動を起こしていった結果として起こってきます。この「不安は不安のまま受け入れて頑張らなきゃ」の背景にまだどこかで症状を無くしたい気持ちが潜んでいないでしょうか?

かつて森田自身が治療した、倉田百三は強迫観念に悩みましたが、形外会(森田が主宰した、入院患者と外来患者を合わせて外来で集団治療を行った会の名称)で、「私がまだ強迫観念の盛んであった頃に、私は自発的に感想が起こらず創造力がなくて、書くのは心にやましいからかかないといったところが、森田先生から、できてもできなくてもよいから、なんでも書きさえすればよいと言われて書いたのです。いま見るとかえってよくできている。今度『冬うぐひす』というのを出版するが、非常にそれが自分で気に入ったのであります。」と語りました。つまり倉田百三は強迫観念に苦しみながら、かえって上等の創作ができたのです。
Dさん、不安を受け入れられないまま、今目の前のことに取り組んでみてください。もうそのように取り組んでいたらごめんなさい。ただ、倉田百三のように、悩んでいる今の方がかえって良い成果が出せるかもしれません。応援しています。 
(舘野 歩)

「精神性発汗について」 '13.9 

Aさんは人前で汗が出たらどうしよう…と不安に思うことで、実際に汗が出てきてしまって困っています。その為に、友達とのランチなども楽しめないようです。
確かに、暑くもないのに自分だけ大量に汗をかいている所を見られるのは恥ずかしく感じることもありますよね。汗を沢山かくような体の病気(甲状腺機能亢進症など)もありますが、いわゆる体の病気ではないことを前提に汗について説明させていただきます。

汗には大きく3種類あります1つ目は温熱性発汗で、体温を調節するためにかく汗のことです。2つ目は味覚性発汗で、これは辛いものを食べた時にかく汗です。そして3つ目が精神性発汗です。これは緊張や興奮した際にかく汗のことで、緊張感のある試合を観て「手に汗握る試合だった」などと表現されるような汗です。手のひらや足の裏など、特定の場所にかくことが多く、これは昔ヒトが狩りをしていたときの名残といわれています。緊張で手のひらや足裏を湿らせることで、指の感覚を鋭くし、 物をつかみやすくしていたそうです。 そしてその汗をコントロールしているのは自律神経系の交感神経です。自律神経には交感神経と副交感神経があります。交感神経は緊張・興奮した時に優位になって、外界の刺激に応じて、瞳孔を開いたり、心拍や呼吸を増やしたり、精神的発汗をしたり、とすばやく体を適応させます。副交感神経はこれとは逆の働きをします。

ここまで、汗の説明をしてきましたが、よくよくみると汗は人間にとって必要なものと分かりますね。そして、汗をかくのは自分の意志ではコントロールできないことも分かります。
Aさんは「汗が出ているのを人に気付かれたくない」と感じ、他の人が「自分が汗をかいているかどうか」に注目しているように感じていますね。しかし、逆にAさんは友達と楽しい会話をしているとき、その友達が汗をかいているかどうかに注目しているでしょうか。きっとその友達の話や身振り手振りなどに注目しているのではないでしょうか。自分が汗をかいているかどうかを一番注目しているのはAさん自身なのでしょう。「自分が汗をかいているか」に注目すれば緊張感が高まり、よけいに交感神経が優位になって、汗が出たり、心拍数が増えて動悸がしたり、呼吸数が増えて、息苦しく感じたりするものです。友達と話していても緊張することがあれば、汗が出ることは自然なことなのです。それを自分の意志でコントロールすることはできないので、それは体に任せてあげることです。緊張するかどうかは、その場になってみないと分からないので、まずは友達との会話を避けずに、その場に行ってみましょう。そして「自分が汗をかいているか」に注目するのではなく、「友達が何を話しているのか」に注意を向けていきましょう。本当は「友達とランチに行きたい!」と悔やんでいるAさんなら出来るはずです。頑張ってみてくださいね。 
(谷井一夫)

「小さな積み重ねを大事にしていきましょう」 '13.8 

Kさん、こんにちは。「人前で汗が出たらどうしよう・・・」と考えるだけで、実際に汗が出てしまうのですね。この様子からしますと、kinokoさんの緊張感はかなり高い状態と言えそうです。交感神経が興奮して、発汗をさせているのでしょう。

人間の自律神経には交感神経と副交感神経があります。主に交感神経は、喧嘩をしたときに働く神経(つまり興奮状態)、副交感神経はご飯を食べたあとに働く神経(つまり眠くなる状態)と覚えていただくと良いと思います。考えるだけで、汗が出てしまうのですから、これまでの経験で、人前で汗がたくさん出てしまって困った苦しかった記憶があるのでしょう。

ですから、体(脳)が考えるだけで、反射的に反応してしまっているといって良いかもしれません。その場合には、

1)まずは自分の気持ちを少しでも落ち着けることが大事になりますね。あわててはいけません。気持ちを少しでも落ち着ける方法としては、簡単な例で言えば、深呼吸をまずはゆっくりと、しっかりとすることです。これだけでも随分ちがうものです。本当にゆっくりと、しっかりと深呼吸を数回してみてください。副交感神経を優位にしましょう。

2)小さな体験で良いですから、会話の体験をコツコツと積んでいくことが大事になりますね。苦手なものは、避ければ避けるほど、ますます苦手になってしまいますので、小さな体験でかまいませんから、コツコツと取り組んでいきましょう。

また、Kさんの気持ちは、これまでの不安や、これから起きるであろう不安に、完全に向いてしまっているようです(とらわれている状態)。どうしても人間というのは苦しいことがあると、そのことばかりに注意がいってしまうものです。不安のために、大変な視野狭窄になっていると思っても良いかもしれません。この視野狭窄によって、肝心なことが見えていないことがたくさんあります。私の患者さんで、「自分の視線をどこに向けたらよいのか」という視線恐怖で悩んでいる方がいました。その方は、仕事上、人と対面することが多かったのですが、自分の視線にとらわれるあまりに、仕事上の肝心なことへの注意がいかずに、ミスを連発し、ついには退職となってしまいました。自分の視線ばかりに注意がいって、肝心な仕事のやりとりに注意がいかずにミスを連発。笑えない話です。まさに気分本位(視線ばかりに注意がいく状態)のために、目的本位(目の前の仕事にしっかりと集中すること)の行動がとれていない状態といえましょう。

Kさんの場合はいかがでしょうか。心配することは発汗だけでしょうか。その他にも、生活する上で、気にするべきことはたくさんありませんか?不安に圧倒されている状態ですと、どうしても必要なものが見えなくなることが往々にしてあります。ですから、森田療法では、「目の前のことをしっかりと見なさい、観察しなさい」と注意を喚起します。目の前の必要なことをしっかりと観察して、その「事実」に基づいて行動することが大事なのです。しかし、意外に、事実をしっかりと認識するということは難しいものなのです。

そして、頭のなかの不安に左右されないことを心がけることです。会話をするときにも「汗のことばかり」に注意がいってしまうようですね。会話ですから、会話そのものにしっかりと注意を向けること、相手が何を言って、どんな表情をしているのかetc、まさに「会話そのものになりきること」が大事です。会話にくらいついていくぐらいの気持ちが必要かもしれませんね。
会話そのものになりきらずに、自分の頭の中の汗のことに注意がいっている状態では、まだ余裕があるといって良いかもしれません。「背水の陣」の心境になってこそ、始めて道が開けると言えましょう。必死の思いで、目の前のことに、ただただ一生懸命になること(没頭すること)、これがとても大事です。自分の人生の大事な一コマである「今、ここで」に必死にならないで、いつ、必死になるときがありましょうか。不安はいつも我々にあるものです。「不安のままに」、「今、ここで」に踏み込んでみようではありませんか。その先に新たな未来があります。未来を切り開くのは貴方自身の一歩です。
(川上政憲)

「音が気になる」 '13.7 

Fさんは音に悩んでいます。以前住んでいた上階の夜中の騒ぎで眠れなくなったのがきっかけで音を気にするようになったとのこと、静かに寝ようとしているところでの騒ぎ声、本当に不快だったと思います。その後2度引っ越したそうですが症状は変わらず、音が怖くてまたうるさかったらどうしようと家に居るにも苦痛のようです。しかしFさんが気になる音はご主人には気にならない程度とのことです。
森田療法では、音を気にして注意を向けてしまうことで感覚がさらに敏感になり余計な音まで拾ってしまい一層気になる悪循環に陥ってしまうと考えます。

Fさんは御自身が出す音も騒音になっていないか気になっているようで、この先も今のところに住めるか不安だとのことです。不安に思う背後には、周囲の人と上手くやっていきたい思いがあるのではないかと推察します。そうであれば大事なことは、音に過剰にとらわれるのではなく、(上手くやっていきたい思いに目を向けて)周囲の人と関わっていくことをお勧めします。挨拶だけでなく、例えばマンションの会合や地域活動などにも積極的に参加されてみたらいかがでしょうか。周囲を知り、また自分を知ってもらうよい機会になると思いますよ。関わりが少ないとその分どういう人か気になったり、その人が出す音までも気になったりするものですからね。
(矢野勝治)

「失敗から学ぶことの方が大きい」 '13.6 

こんにちはSさん。Sさんは、森田療法やこのフォーラムを通して回復された一人のようにお見受けします。体調の違和感にとらわれながらも、「焦らず、慌てず、諦めず」をモットーに生活を広げられていったのだから、Sさんの粘り強い取り組みは、大したものだと思います。

ところでSさんは、最近、ふとしたことで身体の違和感にとらわれ、症状が一時的に増悪したようですね。Sさんは、恐らくこのことで「まだ治っていなかった」などとがっかりしたかもしれません。しかし、私は、神経症の治療過程では必ず、良い状態の後に多少の症状のゆり戻しがあると考えています。つまり、Sさんの一時的な悪化は、治療が上手く行っていないのではなく、より良い回復のための一過程であると思います。だから、そのことでがっかりし、自分自身を極端に卑下する必要は全くありません。
むしろ、大切なのは悪化した体験を、回復後にきちんと振り返り、悪化させない手立てとして知恵をつけていくことなのだと思います。Sさんは、文面からすでに自分の体験を総括し、実生活に生かそうとしているように思います。前ほど症状を引きずらなくなったということは、それだけSさんが、状態を崩した時の経験を知らず知らずのうちに生かしていたことに他なりません。ですので、この姿勢で是非邁進して欲しいと思います。

ところで、私は最近、身体的違和感に悩まれている患者さんには、「違和感を悪者と見なすのではなく、自身の状態を教えてくれる健康のバロメーターとしてとらえ直していくように」と伝えています。身体的違和感は患者さんにとって確かに煩わしい感覚だと思います。しかし、案外身体的違和感にとらわれる時は、生活に余裕がなかったり、身体的に疲労を募らせているときだったりします。つまり、違和感が我々に「無理するな」などと教えてくれているのだと思います。このように、違和感を何らかのメッセージとしてとらえ直していくと、「生活をどのように送ったらよいか」ということが自ずと見えてくると思います。

最後にSさんは仕事に就くことや挙児希望があるようですね。どれも、Sさんの可能性を広げてくる取り組みですから是非頑張って欲しいと思います。その際、仕事を行う上で、久しぶりの就労であれば、「やりたいもの」より「やれるもの」から入っていくと、無理なく続けられると思います。お子さんについては、現在の主治医の先生とお薬のことなどで相談する必要があるでしょうが、私自身はある程度の服薬内容であれば、「妊娠出産をすることはあってよい」と考えています。今位の回復を示しているのであれば、是非ご家族と相談されながら、ご自分の可能性に掛けてみて下さい。今後、Sさんの生活がより豊かになることを願っています。 
(樋之口潤一郎)

「身体表現性障害と森田療法」 '13.5 

Aさんは、「身体表現性障害を克服し、社会復帰をしたい」と書き込まれています。
「意欲低下ですぐ疲れてしまい、益々自分に自信がなくなり、引きこもり状態です」とのこと。
身体表現性障害とは、身体的な検査等の所見は陰性だが、消化器症状や痛み、しびれ、うずき・・などさまざまな身体症状に悩んだり、病気に罹っているのではないかと悩み、生活が妨げられるものを指します。 身体表現性障害の方の中でも、神経質性格つまり内向的で、過敏・心配症の一方で「かくあるべし」が強くて完全主義・・の傾向を持つ人が、森田療法に合っているといえるでしょう。神経症的な不安・悩みが身体の症状に現れたり、とらわれが身体に向かうことがあるのです。 

たとえば身体の不調があったとき、「どうしたんだろう?」と不安な注意を向けたとします。そうすると、身体の部分の感覚がますます敏感になって、ますます症状が強くなる、という悪循環が起こるわけです。
また、病気や体調不良への恐怖が強い、ということは、健康への思い、「体調をちゃんと整えて、ものごとをちゃんとやらなければならない」という思いと表裏一体でもあります。そして、体調が万全でないとだめだ、と思ってしまって寝込んでしまったり、逆に、身体の症状を「気にしては駄目だ」と無理な動きをしてしまう方が多いようです。 

例えばAさんも悩まれている「疲労感」については、「疲労感」によって実際身体を酷使したときに起こるような身体の反応?身体のだるさ、筋肉の痛み、思考力の低下などーがおこることが医学的にも言われています。そこでますます疲労感が強まり、悪循環が起こってしまいます。こうした状態では、休息だけではなかなか良くなっていかない場合が多いといえます。むしろ、「休んでいるのにどうして?」という不安が強くなってしまうこともあります。

そこで森田療法では、その悪循環をほどいていくために、体調と付き合いながら、「そのときできること」を探っていきます。そうして生活のリズムを取り戻していくことによって、心身のリズムも整っていくのです。森田療法では心身の両面への働きかけを大切にします。
とはいえ、身体表現性障害の身体の症状は、外から見えたり検査で測ることができないものでもあり、とてもつらいもの。身体の症状とつきあいながら、少しずつ、自分らしい生活を取り戻していってください。 
(塩路理恵子)

「日記を通して生活を味わい、様々な感情を味わう」 '13.4 

最近の体験フォーラムを読んで、皆さんの日記の記載が盛んなことに驚かされました。
それだけ、日記を書くことが悩みと付き合う上で、そして生活を充実させる上で役立つという実感があるからでしょう。日記は、森田療法において古くから使われている方法ですが、自分自身を振り返る上で非常に有用と思われます。これだけ皆さんが日記を記されているので、今一度日記がご自身にとってどんな意味があるのか、日記から何を得ているのかなど、考えてみても良いのではないでしょうか。日記は、他の部屋でも活発に利用されていますが、より多くの方が日記を書いているこちらの部屋に代表して書かせていただきます。

皆さんの日記を拝見すると、まず一日をどのように過ごしたのか、具体的な時間と行動を記し、その後に一日を振り返って感じたことや考えたことが記されているようです。日記のつけ方に決まりはなく、個々人の書きやすい方法で良いと思いますが、皆さんがこの形式にならっているのは興味深くもありました。
まず行動を具体的につけることは皆さんにとってどのように役立っているでしょうか。
症状や悩みがあると、どうしても不安や気分に注意が向き、それらが整ってから行動しようとしがちです。そうなると、不安や気分に流されて一日が終わってしまうことも少なくないでしょう。しかし、日記をつけよう!と思うと、不安や症状があっても、何かを残そうという意識が生まれやすいのではないでしょうか。こうした意識は、行動への後押しになると共に、不安と付き合う姿勢へと繋がっていくでしょう。また、日記をつけながら一日を振り返ることで、これだけのことが出来たという行動の事実を知ることが出来ます。不安や症状をものさしにするのではなく、出来た事実に目を向けることは「とらわれ」から脱出、そして自己評価や自信にも繋がるでしょう。

さらに、皆さんの日記を拝見して、日課の後に記載されている感想の部分に回復への重要なヒントがあるように思いました。つまり、皆さんが行動をしながら感じたり考えたりしていることの中に、沢山の健康的な感覚が見られたのです。例えば、Hさんの「スーパーで友達に会い、話し込んでしまい、夕食は肉じゃがからカレーライスに変更しました」という日記。時間が無くなったからメニューを変更した、とあたり前のように書かれていますが、予定通り強引に肉じゃがを作るでもなく、話し込んだことを後悔するわけでもなく、まさに状況に合わせて柔軟に対応しているのです。また「帰りは、雨が降っていたので、雨合羽を着て自転車で帰りました。雨の景色もきれいです」という日記。自転車で雨に降られれば、不愉快にも思うでしょうが、Hさんは“雨”という現実を受けとめ、それに合わせて雨合羽を着るという対応をしているだけでなく、雨の景色にも注意が向き、それをきれいだと感じとっているのです。言い方を変えれば、“雨”という事実に抗わなかったからこそ、景色の美しさを感じる心も生まれたのかもしれません。まさに事実を受け入れた時に、見えてくるものなのですね。

不安にとらわれていると、どうしてもその不快な感情を取り去ろうと必死になってしまうものです。しかし、森田先生も「雨宿り」の喩えで述べているように、雨そのものを止ますことは出来なくても、そこで出来ることや工夫することはあるし、実際皆さんもそのように対応しているはずなのです。この姿勢を、ご自身の不安や悩みとの付き合い方に応用すれば良いのです。Hさんのソフトバレーで失敗してしまったという日記でも、次は頑張る!と記載されており、がっかりした気持ちをそのまま受けとめ、次へと転換されている様子に健康な力を感じました。

Aさんの「近頃は夫が家事を手伝ってくれる。ありがたく想う」という日記では、ご主人への感謝の気持ちを感じ取っている様子が伺われ、“自分の悩み”のみにとらわれないこころが表れていると思いました。 
何を行動したかだけでなく、どのように行動したのかも日記を通して振り返り、そこで感じたことを良いことも嫌なこともありのままに味わうことは、とらわれからの脱出に繋がるだけでなく、豊かな生活に繋がるでしょう。
(久保田幹子)

「不安をおのずから乗り越えた体験」 '13.3 

Sさんは、「ふと思い出した事」を紹介してくれました。学生時代、通学中の電車の中で一度だけ何とも言えない身体の不快感に襲われたことがあってそれ以来電車に乗るのが一時ひどく恐くなった時期があったといいます。お母さんに、病気であることを否定され、学校に行かないわけにいかないという思いで、毎日冷や汗かきながら必死に耐えて通われたそうです。そうしている内にいつしか普通に電車に乗れるようになっていたといいます。お母さんの言葉もあって、自分の状態を特別に異常視せずに済んだのがよかったと振り返っておられます。

Sさんのおっしゃる通りだと思います。(医者が言うのも何ですが)もしもそのとき医療機関を受診して、不安障害という診断を受け、病気として薬物療法を受けることになっていたなら、かえって経過が長引いてしまったかも知れませんね。
その後、再発があったようですが、すでに大分回復してご自分の状態を客観視できるようになっておられるのでしょう。不安を異常視してそれと抗争したり回避しようとすることが、益々不安を強化するというからくりを体験的に理解されているように見えます。

Sさんのように、感情や身体感覚の揺らぎをすぐさま病気と見なすことなく、不安な状態をおのずから乗り越えていたという体験は、よく振り返ってみれば多くの方もお持ちになっているのではないでしょうか。ただ不安の只中にいる間は、なかなかそのような体験を想起する余裕がないのかも知れません。
このフォーラムの参加者や読者の方々は、Sさんの報告をきっかけに、いつの間にか不安状態から脱していたことが過去になかったかどうか、つぶさに振り返ってみてはいかがでしょう。そして、そのような体験に思い当ったら、そのとき自分はどのようにふるまっていたのかもよく思い出してみることをお勧めします。他の人のように、なかなか自分は不安を受け入れることができないと悩んでおられる方も、これまでの人生には、知らず知らず不安を抱えながら行動を継続していた時があったかも知れません。解決のヒントは案外ご自分の足元にあるものです。
(中村敬)

「やり過ぎのパターンを変えてみる」 '13.2 

Mさん、仕事・家事・人間関係と様々なところでご無理をされて大変だったのですね。無理をすればその反動で疲れが来ることは誰しもある自然な現象だと思います。ただ実際にどのようなご無理をされたのかがわからないのでなんとも言えませんが、このサイトへたどり着いたということはただ無理をしている自分を慰めて欲しいだけではない気も致します。

仕事・家事・人間関係で、「周りから良く思われたい」ために完全を目指してがんばってしまっていることはありませんか?仕事では周りにまかせずご自身で全て抱え込んでしまったり。家事でも出来合いのものですまさず全て作っていらっしゃるとか。人間関係では、何か頼まれた時に嫌われたくなくて全て引き受けてしまったり、、。もし今私が書いたことが当てはまるようであれば、ご自身の「完全主義的なやり方」を緩める必要があると思います。仕事であれば周りに頼りつつご自身のことをされるとかですね。家事では時にコンビニやインスタントで済ませるなど。人間関係では、ご自身が大変な時に頼まれたらうまく断る勇気を持って発言したり、、でしょうか。

また、「考えても仕方がない将来の事と悪い事癌になった自分・寝たきり老人の自分。いい想像ができません。」とあります。この文の内容の裏側には「将来健康でいたい。年取っても寝たきりでなく動いていたい。」といった過大な「生の欲望」が見て取れます。マイナス思考のまま行動をしていかないとますますマイナス思考へはまっていってしまいます。マイナス思考の裏にある「生の欲望」を発揮するためには、マイナス思考を持ちつつ、今必要なことへ行動を起こしていくことが重要であると考えます。ただ、行動するスタイルが先程書いたような完全主義的スタイルでなく、仕事・家事・人間関係で少し力を抜きつつ、ご自身生活全体を「楽しむ」方向でお過ごしいただければと思います。
(舘野歩)

「神経症(不安障害)とうつ病(気分障害)の合併について」 '13.1 

Aさんは以前より頻尿恐怖(「会議中の尿意と心臓バクバク感」や「他人の車に乗っている際の尿意」)などで悩まれていましたが、最近は、漠然とした不安感やそれに伴って呼吸が早くなったり、食欲がなくなったり、テレビをみるのもしんどい状態になっておられます。
頻尿恐怖とそれに伴って緊張して心臓がバクバクする、また車の中でトイレに行けないような状況でさらに尿意が強くなるといった症状は神経症(不安障害)の1つである「身体表現性自律神経機能不全」という診断になると思います。これは昔、森田が分類した「森田神経質分類」の中では「普通神経質」にあたるものだと思います。これであれば、森田療法の考え方は役に立つと思いますので、是非ともこのホームページのアドバイスなどを参考にされてみてください。 
私が気になる所は、最近「何もないのに何とも言えない不安感がある」「食欲がない」「テレビをみるのもしんどい状況」などの部分です。もちろん、頻尿恐怖の症状に圧倒され疲れてしまって、これらの症状が出ているという事も考えられます。しかし、これらの症状が最近になって、うつ病(気分障害)を合併した為に出てきている可能性もあると思います。

一般的に神経症(不安障害)はある一定の割合でうつ病(気分障害)に合併することが知られています。また、うつ病(気分障害)に合併しやすいとされる神経症(不安障害)は、神経症(不安障害)がうつ病(気分障害)より先に発症すること多いと言われています。

もし、Aさんがすでに医療機関を受診されていて、うつ病(気分障害)ではないと言われているのであれば、問題ないと思います。しかし、まだ医療機関を受診していないのであれば、まずは専門医を受診する事をお勧めします。それは、うつ病(気分障害)の方の多くはやはり薬物療法が必要であったり、神経症(不安障害)とは異なる治療も必要だったりするからです。
あまり詳しい情報がなく、Aさんの今の状態をきちんと説明する事は難しく、アドバイスがAさんの悩みに的外れであったらすいません。
(谷井一夫)